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本書、『シーボルト日本植物図譜コレクション』は、かつて日本に医術を伝えたことでも知られるシーボルトが、幕末から集め始めた貴重な植物画コレクションのすべてをデータベースとともに紹介する世界初のものです。このFLORA JAPONICA DELINEATIONIBUS AC PICTURIS ILLUSTRATA CURA PH. FR. DE SIEBOLD(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト監修により制作された日本植物図譜)は、シーボルトが日本の友人から贈られた植物画や、画家たちに描かせた絵を中心に、1,000点を越える膨大なコレクションです。植物学的にもその価値は高く、日本の植物がいかにして世界に広まっていったかを物語る歴史的にも貴重な資料です。現在このコレクションはロシア科学アカデミー・コマロフ植物学研究所図書館が所蔵しており、1995年と2002年には一部のコレクションの展覧会が日本各地で開催され話題となりました。しかしその後、これらの絵のロシア国外への持ち出しは禁止され、今では幻のコレクションとさえいわれています。本書では、このコレクションが生み出された経緯とその後にたどった運命、そしてその芸術的価値を丹念にたどります。すべての絵の植物学的な基礎情報を目録として掲載し、さらに世界初の試みとして、すべての植物画をデータベース化して付録DVDとしました。 |
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シーボルト来日時の長崎港の景観
(シーボルトの著書『日本』より) |
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フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは1796年、ドイツ医学界名門の家に生まれました。オランダ領東インド陸軍病院の医師となり、1823年(文政6)、長崎のオランダ商館の医師として来日します。鳴滝塾を開設して医術を教え、その傍ら日本の自然や文化、風習、風俗などあらゆることを調査しようと、植物だけではなく動物の標本や鉱物、そして民具などさまざまなものをコレクションしました。
「シーボルト事件」によって、1829年(文政12)、国外追放になりますが、1860年(万延元)、2度目の来日を果たします。そして幕府顧問をつとめますが、1862年(文久2)に帰国。1866年、ミュンヘンで没しました。 |
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[左]現在シーボルト日本植物図譜コレクションは、ロシア科学アカデミー・コマロフ植物学研究所図書館にて、このような本の形をした箱に入れられている。 [右]本の形をした箱を開いた状態。1枚ずつの植物画がシーボルトらの分類のままに、8つの箱に分けて保管されている |
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フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
Philipp Franz von Siebold
(1796-1866) |
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サンクトペテルブルクにある
ロシア科学アカデミー・コマロフ植物学研究所図書館 |
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ドイツ人シーボルトの日本の植物画コレクションが、なぜ今ロシアにあるのか?
本書では、現在の所蔵元であるロシア科学アカデミー・コマロフ植物学研究所図書館の司書長でもある著者T.A.チェルナーヤが、現在に至るまでのコレクションの軌跡を丹念に追います。
日本滞在中に収集した植物画コレクションとともにシーボルトは帰国しますが、その後もヨーロッパで画家たちに日本の植物の絵を描かせてコレクションを充実させます。しかし、シーボルトの死後、コレクションは売りに出され、その植物画を高く評価していたロシアの植物学者マキシモヴィッチの手により、ロシアが購入することになったのです。そしてコレクションはロシアに入ってからもマキシモヴィッチの努力により、一層充実したものとなりました。 |
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シーボルトの収集活動に、画家はなくてはならない存在でした。シーボルトは日本の画家に西洋の植物画の技法を教え、学術的資料として役立つ正確で精緻な植物画を描かせました。それはまた芸術作品としても優れたものでした。
シーボルトとともに仕事をした画家には、国の重要文化財に指定された作品もあり海外での評価も高い川原慶賀、津山藩医で『植物啓原』等の科学書でも知られる宇田川榕菴、狩野派の画家でシーボルトに学んだ写真術で写真家としても名を残す清水東谷、将軍の侍医であった桂川甫賢、尾張の自然愛好会・甞百社の指導者の水谷助六らがいました。
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宇田川榕菴画とされるGaleola septemtrionalis Rchb.f.(ツチアケビ、ラン科)
目録919[Galeola septentrionalis Reichenb.f.(No.650/939)] |
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